2018年2月28日水曜日

ノルウェー領グリーンランドの終焉

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)の学習 11

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)を読んでその抜き書きをしたり、感想をメモしたりしています。この記事では「第8章ノルウェー領グリーンランドの終焉」の感想をメモします。

1 ノルウェー領グリーンランドの入植地とイヌイットの拡大

ノルウェー領グリーンランドの入植地
西暦980年頃からノルウェー人の入植がはじまり、最盛期には人口は5000人となりましたが、15世紀頃には2つの入植地共に全人口が死滅しました。
ノルウェー領グリーンランドの歴史は約450年ですが、これは北米大陸でアメリカという英語圏の社会が存続している年数よりも長いことになります。

イヌイットの拡大 Wikipedia(英語版から引用、編集)
THULEの子孫がイヌイットです。
ノルウェー人はイヌイットの生活技術を学ぶことなく、従って豊富な食糧資源を利用することなく全員飢え死にしました。

参考 現代イヌイットの方言分布 Wikipediaから引用
現代イヌイットの分布を表します。

2 ノルウェー領グリーンランド終焉の理由
「ノルウェー領グリーンランドの終焉の究極の理由――ノルウェー人社会のゆるやかな衰退の根底にある長期的な要因は明らかなのだ。その理由は、すでに詳しく論じてきた五つの要素から成る。ノルウェー人たちによる環境侵害、気候変動、ノルウェー本国との友好的な接触の減少、イヌイットとの敵対的な接触の増大、ノルウェー人自身の保守的な世界観。
●要するに、ノルウェー人たちは、木を切ったり、表土を剝がしたり、牧草の量が追いつかないほどの家畜を飼ったり、土壌浸食を引き起こしたりすることで、自分たちの依存する環境資源を意図せずして損なってきた。入植が始まった時点ですでに、グリーンランドの天然資源は、しかるべき規模のヨーロッパ型牧畜社会をぎりぎり支えられる力しか持たなかったが、飼い葉の生産量は年によって著しく変動した。したがって、不調な年には、環境資源の枯渇が社会の存続を脅かしたことだろう。
●第二に、グリーンランドの氷床コアから計算した気候変動の概要によると、ノルウェー人の入植が始まったころの気候は比較的穏やか(今日と同程度)で、十四世紀に何度か、数年単位の寒冷な時期を経て、十五世紀初頭から小氷河時代と呼ばれる寒期に突入し、それが十九世紀まで続く。この気候のせいで飼い葉の生産量はさらに落ち込み、グリーンランドとノルウェーを結ぶ海路も氷でふさがれた。
●第三に、鉄、木材、文化的価値観などの貴重な供給源だったノルウェー本国との交易が間遠になり、やがてとだえた原因は、海面の氷結以外にもいくつかある。一三四九年から五〇年にかけての黒死病の流行で、ノルウェーの人口の約半分が死亡した。一三九七年、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの三国がひとりの王のもとに統合され、王は三地域のうち最も貧しいノルウェーを軽んじた。また、グリーンランドの主要な輸出品であるセイウチの牙の需要が、十字軍の遠征をきっかけにアジアや東アフリカの象牙がヨーロッパにふたたび入ってくるようになって落ち込んだ。地中海岸がアラブに制圧されているあいだ、象牙の交易は途絶えていたのだ。十五世紀に入ると、ヨーロッパでは、工芸品の材料としての牙の使用そのものが時代遅れになった。これらの変化によって、ノルウェー本国の資源が損なわれるとともに、グリーンランドへ船を出す動機も薄れた。このように、おもな交易相手が問題をかかえてしまったせいで自国の経済が危機にさらされるという経験をしたのは、ノルウェー領グリーンランドばかりではない。一九七三年に湾岸諸国が石油の禁輸措置をとったときの輸入国であるアメリカ、マンガレヴァ島の森林破壊の影響を受けたピトケアン島とヘンダーソン島など、類例は多い。
●最後に、イヌイットの定住。ノルウェー人はイヌイットに対して「悪しき態度」で臨み、敵対関係となり、イヌイットとの交易やイヌイットの舟や狩猟法を取り入れることはなかった。
●そして劇的な変化に対応できず、対応する気もないノルウェー人の気質を加えれば、グリーンランド入植地の消滅の裏にある究極の要因五点セットの完成だ。」
ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から要約・引用

3 ノルウェー人の意思決定
四つの条件が、ノルウェー人の考えかたを方向づけている。
●第一に、グリーンランドの不安定な環境の中で生計を立てていくのは、現代の生態学者や農学者にとってさえむずかしい。ノルウェー人たちが気候の比較的穏やかな時期にグリーンランドに入植したのは、幸運であり、不運でもあった。その前の千年間をそこで過ごしていないのだから、寒暖の周期を経験したことがなく、寒冷期に入ると家畜の数を維持するのがむずかしくなることなど予測しようがなかった。二十世紀に入ってから、デンマーク人がヒツジとウシをグリーンランドに再導入したが、やはり失敗を免れず、ヒツジの頭数が多すぎて土壌浸食土壌浸食を引き起こし、ウシについては早々に飼育をあきらめた。現代グリーンランドは経済的に自足しておらず、デンマークからの対外援助と欧州連合からの漁業権料に大きく依存している。このように、今日の基準に照らしても、複雑な経済活動を展開して、四百五十年間も自足した生活を維持してきた中世ノルウェー人の営みは敬服すべきものであり、自滅志向とはほど遠い。

●第二に、ノルウェー人は頭を白紙の状態にして、つまり、グリーンランドの問題に虚心坦懐に取り組むつもりで新天地へ乗り込んだわけではない。歴史上のすべての入植者と同じく、ノルウェー本国やアイスランドで数世代にわたって培われた自分たちの知識、文化的価値観、生活様式の嗜好を胸に深く抱いてきたのだ。彼らは自分たちを、牧人であり、キリスト教徒であり、ヨーロッパ人であり、何よりノルウェー人であると考えていた。自分たちの祖先は三千年にわたって、豊かに牧畜を営んできた。言語と宗教と文化を本国と共有することで、彼らはノルウェーと結びついていた。アメリカ人やオーストラリア人が、何世紀にもわたってイギリスと結びついていたように……。グリーンランドの歴代司教は全員、本国から派遣されたノルウェー人で、グリーンランドで育ったノルウェー人ではなかった。その共有されたノルウェー人意識がなかったら、彼らはグリーンランドで力を合わせて生き延びることはできなかっただろう。そうやって考えてみると、純然たる経済的見地からはけっして最善のエネルギー利用とは言えないウシや北の狩場や教会に、彼らが資金と労力を投入したのもうなずける。グリーンランドでの難題を克服する力となった社会的結束が、一方では彼らの足を引っ張ったわけだ。これは、歴史の中で幾たびも繰り返されてきた普遍的なテーマだ。

●第三に、ノルウェー人たちは、ほかの中世ヨーロッパのキリスト教徒たちと同様、非ヨーロッパ人の異教徒を軽蔑し、そういう相手とうまく付き合うだけの経験を持たなかった。ヨーロッパ人がそういう差別意識を持ち続けながらも、自分たちの利益のために先住民を利用するすべを身につけたのは、一四九二年のコロンブスの航海に始まる探検の時代を経たあとのことだった。だから、この時代のノルウェー人はイヌイットから学ぶことを拒み、おそらくおそらく相手の憎悪をかき立てるような態度をとっていたのだろう。その後、北極圏において、多くのヨーロッパ人集団が、イヌイットを無視したり反感を買ったりして、同じように危険な目にあった。なかでも有名なのがイギリスのフランクリン探検隊で、一八四五年、イヌイットの住むカナダ北極圏地方を突っ切ろうとして、乗組員百三十八人全員が死亡した。ヨーロッパの探検家や入植者の中で、北極圏で最もめざましい成功を収めたのは、ロバート・ピアリーやロアル・アムンゼンのように、最も積極的にイヌイットのやりかたを採り入れた者たちだった。

●最後に、ノルウェー領グリーンランドでは、権力が最上層に、つまり首長や聖職者の手に集中していた。彼らが大半の土地(すべての優良な農場を含む)を所有し、舟を所有し、ヨーロッパとの交易を取り仕切った。彼らの指示指示で、その交易のかなりの部分が、彼らの威光を増す物品の輸入にあてられた。最も裕福な所帯のための贅沢品、聖職者のための祭服や貴金属、教会のための鐘やステンドグラスなどだ。数少ない舟は、輸入品を購うための高価な輸出品(牙やホッキョクグマの皮)の捕獲のため、北の狩場へ差し向けられた。首長たちはふたつの動機で、土地に害を及ぼすほどのヒツジの大群を飼育した。ひとつは、羊毛がグリーンランドの貴重な輸出物で、それによって輸入品が購われたこと。もうひとつは、ヒツジを飼うことで土地を損なわれた自営農民が、小作農に転じることを強いられ、それで首長の臣下が増えて、ほかの首長との競合に有利になることだ。ノルウェー人社会の物質的な状況を改善する策はいくらでもあった。例えば、鉄の輸入量を増やして、贅沢品を減らす。舟をマルクランドにも回して、鉄や木材を運んでくる。カヤックカヤックをまねたり、新しい形の舟を発明したりして、狩猟法に改良を加える、など……。しかし、それらの改善策は、首長の権力、特典、限られた利益を脅かしかねなかった。きびしく統制され、相互に依存し合うノルウェー領グリーンランドという社会では、首長たちは他の構成員がそういう改善を試みるのを妨げる立場にあった。


 このように、ノルウェー人社会の構造が、権力者の短期的な利益と社会全体の長期的な利益の相克を生み出した。首長と聖職者が重きを置いたものの多くが、やがて社会にとって有害であることがわかった。とはいえ、社会の価値観はその弱みの土台であると同時に、強みの土台でもある。ノルウェー領グリーンランドはヨーロッパ社会の特異な型を生み出すことに成功し、四百五十年ものあいだ、ヨーロッパの最も遠い前哨地として存続した。その年数は、北米大陸でアメリカという英語圏の社会が存続している年数より長いのだから、わたしたち現代のアメリカ人に、ノルウェー領グリーンランドの歴史を破綻の実例と決めつける資格はない。
ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から要約・引用

4 感想
ノルウェー領グリーンランドの開花と終焉は人社会の発展と終焉の典型的モデルであると感じました。自然環境や地理的位置が不利であるだけに典型性が際立つような気がします。




2018年2月22日木曜日

ノルウェー領グリーンランドの開花

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)の学習 10

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)を読んでその抜き書きをしたり、感想をメモしたりしています。この記事では「第7章ノルウェー領グリーンランドの開花」の感想をメモします。

1 ノルウェー領グリーンランドの入植地
西暦980年頃からノルウェー人の入植がはじまり、1000年頃には約4000人が東入植地に、約1000人が西入植地に入植しました。

2つの入植地

東入植地の様子
海岸から離れたフィヨルドの奥で、なおかつ氷河流入のない場所を選んでいます。

東入植地の現在の様子

2 ノルウェー領グリーンランドが開花できた条件
ノルウェー人たちがグリーンランドにやってきた当初、運よく良好な環境条件がそろっていたおかげで、うまく暮らしていけた。ノルウェー人たちは、手つかずの大地を発見するという幸運に恵まれた。かつて一度も伐採や放牧にさらされたことがなく、牧草栽培にも適した土地だ。しかも、ノルウェー人が到達した当時は気候も比較的穏やかで、たいていの年には飼い葉が不足なく収穫でき、ヨーロッパに至る水路には氷がなかった。さらに、ヨーロッパではセイウチの牙の需要が高く、グリーンランドのノルウェー人入植地や狩場の付近にアメリカ先住民がいない時期でもあった。
生活手段は牧畜と食肉を得るための狩猟であり、漁業は全く行われなかった。

3 グリーンランドのノルウェー人社会の特色
グリーンランドのノルウェー人社会の特色は、五つの言葉で表わすことができる。互いにやや矛盾し合うその言葉とは、〝共同型、暴力的、階層的、保守的、ヨーロッパ志向〟というものだ。これらの特徴は、グリーンランド社会の祖となるアイスランド社会、ノルウェー社会から引き継がれたが、グリーンランドにおいて最も顕著に表面化した。
●共同型
外フィヨルドで仕留められたアザラシは内フィヨルドへ送られ、高地で仕留められたシンリントナカイの肉は低地へ、裕福な農場の家畜は、厳冬で家畜を失った貧しい農場に輸送された。
●暴力的
グリーンランド社会は、アイスランドとノルウェーから、共同体制とともに、ひどく暴力的な傾向も引き継いでいた。
例 氏族間の闘争に敗れた一族のものらしき人骨――男性の人骨十三体と九歳の子どもの人骨一体――が、分散した状態で発掘されている。うち五体の頭蓋骨には、おそらくは斧か刀剣など、鋭利な刃物による傷跡が残されていた。
●階層的
少数の首長が頂点に立って、小さな農場の所有者、自分の農場を持たない借地人、そして(初期には)奴隷を支配するような形だ。
階層制の名残として現在も確認できるのは、貧しい農場に比べると、裕福な農場のごみ捨て場では、ヒツジとアザラシの骨に対するウシとシンリントナカイの骨の比率が高いことだ。
●保守的
グリーンランドのヴァイキング社会は、ノルウェー本国のヴァイキング社会に比べると、変化に抗って旧来のやりかたに固執するという保守的な傾向が強かった。グリーンランドの道具と彫刻の様式は、数世紀のあいだほとんど変化していない。漁労は入植の初期段階で放棄され、社会が存続した四百五十年のあいだ、その決定が覆されることは一度もなかった。ワモンアザラシやクジラの猟については、たとえ地元で入手できる一般的な食物を食べずに飢えることになろうと、イヌイットの狩猟法を学ぼうとはしなかった。
グリーンランド人たちがそういう保守的なものの見かたをするようになった最大の理由は、自分たちが非常にきびしい環境下にあることを意識していたのだろう。経済をうまく発展させたおかげで数世紀のあいだ生き延びることはできたものの、その経済を多様化させると、利益より害悪が生じる可能性のほうがずっと高いと悟ったのだ。保守的になるのもうなずける。
●ヨーロッパ志向
グリーンランド人はヨーロッパから有形の交易品を受け取っていた。
船が訪れた頻度、船の積載能力、グリーンランドの人口を推定して計算してみると、一年にグリーンランド人ひとりが受け取る輸入品の重量は平均約三キロほどになる。到着した荷物の大半は、教会用の物資と上層階級用の贅沢品だったので、大部分のグリーンランド人が受け取る荷物の量は、その平均値よりかなり少なかった。したがって、現実的には、ほとんど場所を取らない貴重品しか輸入されなかったということだ。
グリーンランドからの輸出品で最も珍重されたのは、北極圏産の動物――ヨーロッパの大半の地域では希少であるか、もしくは棲息していない動物――に由来する五つの品目だった。すなわち、セイウチの牙の精製品、セイウチの皮(船で使う最強の縄の材料として貴重)、人目を引くステータスシンボルとしての生きたホッキョクグマもしくはその毛皮、当時ヨーロッパで一角獣の角と信じられていたイッカク(小型のハクジラ)の牙、生きたシロハヤブサ(世界最大のハヤブサ)だ。
ヨーロッパからグリーンランドに輸出されたもののうち、少なくとも有形物と同じ程度に重要なのが、キリスト教徒としての、そしてヨーロッパ人としての自己認識という精神的な〝輸出品〟だった。
経済力に不相応の教会を建設した。
キリスト教徒としてのそういう明確な自己認識に加えて、グリーンランド人は、さまざまな面でヨーロッパ人としての自己認識を保持していた。例えば、ヨーロッパの青銅製の燭台、ガラスのボタン、金の指輪を輸入していたこともそのひとつだ。グリーンランド人は、数世紀に及ぶ植民地の存続中、ヨーロッパの習慣の移り変わりを細部に至るまで手本とし、採り入れていた。確実な記録が残っている例としては、埋葬の習慣が挙げられる。
本物のヨーロッパ人よりヨーロッパ人らしくあろうとしたことが、文化上の足枷となって、その生活様式に抜本的な変更――生存に役立ちうる変更――を加えられなかったわけだ。

3 感想
3-1 社会の特色
ノルウェー領グリーンランドの社会特性のまとめが大変判りやすく説明されています。
以前、アイスランド旅行をしたことがあり、その時地元博物館でサーガ(伝承書)説明展示を詳しくみることができ、ヴァイキング(ノルウェー人)の特色を知りました。(大変ユニークな展示で興味が湧いたのですが、残念ながら写真撮影禁止でした。)その特色を思い出すと、それを純化したものがノルウェー領グリーンランドであると理解できました。
著者は多くの情報からグリーンランド人社会の特色を5つのキーワードで捉えました。
このような捉え方で今学習中の大膳野南貝塚後期集落を捉えるとどうなるのか?
発掘調査報告書の情報を詳しく分析してそこから有用情報を見つけるという思考とともに、集落社会全体の特色はどうであるのかザックリと全体像を見渡すような思考も時々必要であると感じました。

3-2 漁業がおこなわれなかったこと
ノルウェーやアイスランドでは漁業が行われれていたのに、そこを出自とするグリーンランド人が飢餓を恐れながらも漁業を全く行わなかったことは興味深いことです。
著者は入植初期に指導者が海産物による中毒にかかり、それがきっかけで漁業がタブーになったのではないかと想像しています。

3-3 後知恵
著者は現代人は後知恵があるのグリーンランド人社会の活動が不合理であったように感じるが、当時の社会では必然的な活動が行われたという趣旨の文章を何べんも書いています。
過去社会を読み解く上で(学習する上で)大切な視点であると思います。


2018年2月17日土曜日

メモ QGIS 一部地物のshapeファイル作成

QGISでポリゴンファイルを作成し、そのレイヤーを複製して複製毎に様々に異なる分類をして表示し利用しています。
その際、特定の分類で抽出されている地物だけのshapeファイルを作りたいときがあります。
抽出している地物のボロノイポリゴン作成とか、固定距離バッファ作成などはその地物だけのファイルを作成しなければ作成できません。
その一部地物だけのshapeファイル作成ができるようになりましたのでメモしておきます。

例 全地物のshapeファイルの画面表示

例 全地物を2つの要素に分類した時の画面表示

例 1つの要素だけを表示した画面
この要素(ブルー表示地物)だけのshapeファイル作成は次のように行います。

1 「領域またはシングルクリックによる地物選択」ボタンを押す
2 地物(ここではブルー表示地物)を画面上で全て選択する
3 メニューの「編集」→「地物のコピー」
4 メニューの「編集」→「新規レイヤへの地物の貼り付け」→「新規ベクタレイヤ」
「空間参照システム」ダイアログで座標系を選択し、新規Shapeファイルの保存先ディレクトリとファイル名を指定してOK

これで一部地物だけのshapeファイルを作成できます。

とても便利な機能です。

2018年2月13日火曜日

メモ QGIS 画面上任意点の座標取得方法

QGISで画面上任意点の座標を取得したくなる時がありますので、その方法を図解でメモしておきます。

QGIS画面上任意点の座標取得方法

既にベクトルレイヤーとして存在している点情報はそのレイヤをcsvファイル出力すれば各点の座標を出力できます。

QGIS点情報からの経緯度取得方法
2018.01.08記事「QGIS点情報の経緯度取得方法

2018年2月12日月曜日

ヴァイキングの序曲(プレリュード)と遁走曲(フーガ)

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)の学習 9

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)を読んでその抜き書きをしたり、感想をメモしたりしています。この記事では「第6章ヴァイキングの序曲(プレリュード)と遁走曲(フーガ)」の感想をメモします。

1 ヴァイキングの北大西洋進出
ヴァイキングはヨーロッパ内陸部深くを含めて広大な地域に進出していますが、そのうち北大西洋進出イメージ地図が本書に掲載されています。

ヴァイキングの進出
ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

ヴァイキングの北大西洋進出地

2 ヴァイキングの勢力拡大 自己触媒作用
793年を境にヴァイキングの略奪活動が始まり広範に進出を始めましたが、その分析を本書では次のようしています。
歴史上のどんな進出であれ、その契機となったのが〝押す力〟(母国の人口増加による圧力、好機の減少)なのか〝引く力〟(外国を植民地化できる好機、未居住の区域の存在)なのか、あるいは双方の力が働いたのかを追究してみるのも、ひとつの方法だろう。広汎な進出の多くは、押す力と引く力の複合作用を動力としてきた。ヴァイキングの進出についても同じことが言える。ヴァイキングの場合、押す力とは、母国での人口増加と王権の強化であり、引く力とは、入植できる無人の新しい土地や、居住ずみでも裕福で無防備ゆえ略奪可能な土地が外国にあったことだ。

793年以降、押す力と引く力の総和が、なぜそこまで突然に人々を駆り立て、1066年が近づくにつれて、なぜそこまで急速に落ち込んだのか? この問題では、ヴァイキングの広汎な進出を〝自己触媒作用〟の好例と見ることができる。

人間の集団が自己触媒となって広汎に進出していく場合には、ある民族が当初手にした強み(例えば技術的な優位)が利益や発見をもたらし、そのことでさらに多くの人間が刺激を受け、利益と発見を求めて動くようになり、その結果、いっそう多くの利益と発見がもたらされ、いっそう多くの人間が進出し始めて、ついに専有可能な領域を専有し尽くすと、その時点で、自己触媒型の進出が触媒作用を止め、停滞することになる。
ヴァイキングの連鎖反応を始動させた出来事としては、明確なものがふたつある。まず、793年のリンディスファーン修道院襲撃で大量の略奪品を手にしたことことが刺激となって、翌年も襲撃が行なわれ、さらに大量の略奪品を手にしたこと。そして、ヒツジの飼育に適した無人のフェロー諸島を発見したことがきっかけとなって、もっと広くもっと遠方にあるアイスランドを発見し、次に、いっそう広くいっそう遠方にあるグリーンランドを発見したことだ。ヴァイキングたちが母国に略奪品を持ち帰ったこと、あるいは定住に格好の島があると報告したことで、さらにおおぜいのヴァイキングたちが想像力をかきたてられ、さらに多くの略奪品、さらに多くの無人の島を探しに出ることになった。

ヴァイキング以外にも、自己触媒型の広汎な進出の例はある。例えば、紀元前1200年ごろ、ポリネシア人の祖先たちが太平洋を東に向かって広く進出し始めたこと、また、15世紀、特に1492年のコロンブスによる新世界〝発見〟を皮切りに、ポルトガル人とスペイン人が世界じゅう世界じゅうに広く進出していったことが挙げられるだろう。」ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

とてもわかりやすい説明です。

3 6つの植民地の存続と滅亡
6つの植民地の存続と滅亡の概要は次の様に記述されています。
ヴァイキングによって北大西洋の島々に築かれた六カ所の植民地は、同一の祖先から発した異なる社会が確立する過程について、六つの実験を並行して行なったに等しい意味を持つ。本章の冒頭で述べたとおり、これら六つの実験からは、それぞれ異なる結果が生じている。オークニー諸島、シェトランド諸島、フェロー諸島の植民地は、一度もその将来が深刻に危ぶまれることなく、一千年以上存在し続けた。アイスランドの植民地も存続はしたが、貧困と政治上の深刻な問題を克服しなければならなかった。グリーンランドのノルウェー人たちは、約四百五十年を経たのちに死に絶えた。ヴィンランドの植民地は、最初の十年足らずで遺棄されることになった。これらの異なる結果に、各植民地の環境の差が関係していることは間違いない。それぞれに異なる結果が出た原因として、主要な環境上の変数が四つ挙げられる。ノルウェー及びイギリスからの海上距離と航海時間、(事例によっては)非ヴァイキングの住民による妨害、特に緯度と気候によって決まる農業の適否、浸食と森林破壊の起こりやすさに代表される環境の脆弱性だ。」ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用
この概要に引き続き、特にアイスランドの土地管理の失敗(特に土壌浸食とヒツジの過放牧)について詳しく記述されています。
またヴィンランドにおけるヴァイキングがサーガの記述と発掘情報から北米先住民と敵対的関係になり短期間で撤退したことが記述されています。

4 感想
・ヴァイングの自己触媒型進出の説明を読んで最初に思い当たったことは千葉県縄文時代の貝塚集落が何回か大規模に発展と消滅していますが、発展とは明らかに千葉県外部(千葉県からみて東方)から人々がやってきたことを示しています。
それは列島中部で押す力があり、一方千葉県に「引く力」があったということです。
列島中部の人口急増等で食えなくなった人々が東京湾の豊かな海岸を発見して、次々に移住してきたということです。
縄文時代の列島に顕著な自己触媒型進出が何回かあったということです。
このように考えると、自分が扱う情報が現代行政区域としての「千葉県」に強く限定されていて、バカバカしい状況にあることに無頓着であったことに気が付きます。
発掘行政や情報提供サービスが県単位であるという社会状況実態に自分が安住していることに恥ずかしさを覚えました。

・アイスランドがバイキングが入植した当初は森林が繁る緑の濃い土地であったことをこの図書の記述ではじめて知りました。現在の荒涼とした風景がアイスランド原風景であるとばかり思いこんでいたので、この図書は自分の認識を大いに変えてくれました。

アイスランドの風景

アイスランドは緯度は高く、一度自然を破壊すると二度と元に戻らないのですが、気候が温暖な地域にあっても自然破壊は人社会に壊滅的影響を及ぼすことを予感しました。また二度と元に戻ってしまえば、過去にあった自然破壊の壊滅的影響を認識しずらくなります。
縄文時代人口急増期の自然破棄が縄文社会に壊滅的影響をもたらしたが、その後の自然復元でその様子がわかりにくくなっているのではないかと、密かに疑っています。


2018年2月10日土曜日

快適なKindle for PCによる読書

Kindle for PCによる読書が快適となり、紙の本はできれば避けたいという気分が最近特に強くなったのでメモしておきます。
以前から本を自分で裁断して専用スキャナーで電子化し、パソコンで読むという「自炊」をしていたのですが、Kindleで販売している本なら多少の出費増にはなりますが手間が無くなりますので、大変便利であることを強く実感するようになりました。

パソコンのKindle for PC画面

タブレットのKindle for PC画面と紙図書(文明崩壊)

自分の場合文字を大きくして黒地に白文字画面にするととても読みやすくなります。
紙の図書では文字の大きさを変えたり文字の色を変えたりできませんから、高齢者には窮屈です。

またKindle図書は個別図書によって異なりますが、ジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」の場合次のような方法でコンテンツをコピーできます。
範囲指定→その他→Google(エンターキー)
Google検索画面にコピーされたコンテンツにカーソルを移動してCtrl+A→Ctrl+X
エディターに移りCtrl+V→半角空白の全削除(全置換)
この方法を使えば引用等にてこずることがありません。

書斎ではパソコンでKindle図書を読み、寝室(横になりながら)や旅先ではタブレットで同じKindle図書を読みます。
旅先でインターネット環境がなくてもKindle図書が読めるので快適です。
最近の旅行ではジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」を興味を持って大幅に読み進めました。おそらく紙図書持参では目が疲れてこのような充実した読書は出来なかったと思います。

2018年2月9日金曜日

マヤの崩壊

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)の学習 8

ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上下)を読んでその抜き書きをしたり、感想をメモしたりしています。この記事では「第5章マヤの崩壊」の感想をメモします。

1 マヤ遺跡の位置

マヤ遺跡 ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

ユカタン半島

2 古典期マヤ崩壊の要約
本書では幾つかの但し書きを述べた上で、マヤ崩壊を次のようにまとめています。
●構成要素のひとつは、入手可能な資源の量が人口増加の速度に追いつけなくなったことだろう。トマス・マルサスが一七九八年に唱えた説と同じで、また、現在でも、ルワンダ(ルワンダ(第10章・下巻)やハイチ(第11章・下巻)などがそういう窮状に陥っている。考古学者のデイヴィッド・ウェブスターは、簡潔にこう言う。「過剰な人数の農民が過剰な面積の耕作地で過剰な量の作物を栽培する状態」。

●人口と資源とのその不均衡を助長するのが、第二の構成要素、すなわち、森林破壊と丘陵地の浸食が及ぼす影響だ。このせいで、ただでさえ農地が必要なときに、利用できる農地の総面積が減ってしまい、さらに、森林破壊から人為的な旱魃が派生したり、地力の枯渇などの土壌問題が起こったり、大型のシダが蔓延したりという災いが追い討ちをかける。

●三番目の構成要素は、しだいに減少する資源を巡って、ますますおおぜいの人間が争い合うようになり、戦闘行為が増加したことだ。すでにマヤの各地に広がっていた戦争は、崩壊直前に最も激しさを増した。少なくとも五百万人、ことによるともっとおおぜいの人間が、コロラド州(面積約二十七万平方キロ)より狭い区域にひしめき合っていたことを考えれば、少しも意外なことではない。戦争が原因となって、国と国との境界が、耕作をするには危険な中間地帯となり、営農できる土地の総面積はさらに減っただろう。

●事態を極まで至らしめたのが、気候変動という第四の構成要素だ。古典期崩壊時の旱魃に襲われたとき、すでにマヤには、以前の旱魃を乗り切った経験があったが、崩壊時の旱魃は、それまでになく深刻なものだった。以前の旱魃のときには、まだ人の住んでいない場所が残っていたので、旱魃の被害に遭った場所の住民はよそに移動して難を逃れることができた。ところが、古典期崩壊のころまでには、もうマヤ社会には人があふれていて、近場には新規にやり直しができるような未居住の土地がなかった。また、信頼性の高い水源を維持できる区域もほとんどなく、維持できたにしても、その区域に全人口を収容するのは不可能だった。

●五番目の構成要素として、以上の諸々の問題がマヤ社会を蝕んでいたのはどう見ても明らかなのに、なぜマヤの王たち、貴族たちは、それらの問題を認識し解決することができなかったのかという理由を問わねばならない。王と貴族たちの関心は、間違いなく短期的な問題に注がれていた。例えば、私腹を肥やすこと、戦争を行なうこと、石碑を建てること、他と競うこと、それらすべての基盤として、農民からじゅうぶんな食糧を取り立てることなどだ。人類の歴史に登場する大半の指導者と同じく、マヤの王と貴族も、長期的な問題に――察知できないものはともかく――留意していなかった。このことについては、第14章(下巻)でふたたび取り上げる。」ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

チチェン・イッツァ遺跡

ティカル遺跡(ガテマラ)
「マヤ人過去と現在」から引用

ティカル遺跡(ガテマラ) 復元図
「マヤ人過去と現在」から引用

3 感想
・メキシコ領のマヤ地域は旅行したことがあるのですが、ほとんど人口もなくいわば「荒地」であり、ここが最盛期には数百万人の人口を抱えていたという事実は実感できないものでした。文明崩壊のダイナミックさに心が揺さぶられます。
・人口急増をベースに他の不可避な悪条件が加わった時、マヤでは戦争と石碑建造に明け暮れ結局滅亡しました。この状況をアナロジカルに大膳野南貝塚後期集落(あるいは日本の縄文時代後期)に当てはめると、農耕社会と狩猟採集社会という違いがあるにも関わらず、人口急増ピーク期には「戦争」こそなかったかもしれませんが「いさかい」「喧嘩(縄文式闘争)」「社会秩序の乱れ」など社会組織の内部崩壊は必ず存在したと直観できます。(縄文人だけ人類普遍の社会心理特性と違っているとは思えないから。)
貝塚集落住民は食糧不足で集落滅亡の時まで貝塚造成工事に精を出していてようです。(貝塚造成工事…貝を砕き、土と混ぜてそれで円環状塚をつくる工事)
・文章中に下記の4170年前旱魃記述があり、ひょっとすると大膳野南貝塚後期集落衰退期と一致するのではないかと勘繰ります。

マヤにおける旱魃の頻度を綿密に分析してみると、およそ208年の間隔をあけて再発する傾向が見られる。旱魃にそういう周期があるのは、太陽の放射に小幅なばらつきがあるせいかもしれない。おそらく、ユカタン半島の降雨傾度――相対的に見て北が乾燥、南が湿潤――が南にずれ込んだ結果、そのばらつきが通常より深刻な結果をマヤにもたらしたのだろう。だとすれば、そのような太陽放射のばらつきが、程度の差はあれ、マヤ地方だけでなく全世界に影響を及ぼしていても不思議はない。実際、気候学者たちの意見では、マヤと遠く離れた場所でも、ほかの有名な先史文明の崩壊と、前述した旱魃の周期の頂点とが重なり合うとされる。例えば、世界初の帝国(メソポタミアのアッカド王国)が崩壊した紀元前2170年ごろ、ペルー沿岸のモチカ第四期文明が崩壊した600年ごろ、あるいは、アンデスのティワナク文明が崩壊した1100年ごろなどだ。」ジャレド・ダイアモンド著「文明崩壊」(草思社文庫、上)から引用

2018年2月8日木曜日

2018年1月ブログ活動のふりかえり

ブログ「花見川流域を歩く」とそのファミリーブログの2018年1月活動をふりかえります。

1 ブログ「花見川流域を歩く」
1月は大膳野南貝塚後期集落検討記事を中心に20記事を書きました。竪穴住居を漆喰貝層有無別に、かつ時期別に区分してデータを見ると新しい情報を得ることができるようになりました。
1月15日にはブログ開設7周年通過記念記事を書きました。

2 ブログ「花見川流域を歩く 番外編」
マニアックパソコンスキル記事とジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」の学習記事を合計11書きました。

3 ブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」
早朝散歩に関する記事22を書きました。

4 ブログ「世界の風景を楽しむ」
Geomorphology from spaceの風食地形に関する学習記事6を書きました。

5 ブログ「芋づる式読書のメモ」
縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)の学習記事を5編、縄文の思想(瀬川拓郎、2017、講談社現代新書)の学習記事3編を書きました。
両書から強い刺激を受け、学習意欲が増進しています。

6 1月活動の特徴
1月終盤は都合によりブログ活動が出来なかったので記事数は減少しましたが、気分は充実し思考を深めることができた月となりました。
大膳野南貝塚の発展と衰退に関する要因のイメージがおぼろげながらわかってきましたので、学習に対する興味が深まりました。集落消長要因の検討の背景に次の学習が役立っていることを実感しています。
ジャレド・ダイアモンド「文明崩壊」
縄文時代史(勅使河原彰、2016、新泉社)
縄文の思想(瀬川拓郎、2017、講談社現代新書)

7 2月活動のイメージ
大膳野南貝塚の学習を継続し、納得できていない事象のイメージが持てるように分析を深めたいと思います。
関連読書も継続し記事としてアップしていきます。

参考
ブログ「花見川流域を歩く」2018年1月記事
○は閲覧が多いもの
ブログ「花見川流域を歩く 番外編」2018年1月記事
ブログ「花見川流域を歩く 自然・風景編」2018年1月記事
ブログ「世界の風景を楽しむ」2018年1月記事
ブログ「芋づる式読書のメモ」2018年1月記事
花見川風景

2018年2月5日月曜日

メモ QGIS バラバラの方向を向く矢印図形のプロット

いかに初歩的な作業といえども、その方法が判らなければいつまで経ってもできないのですが、その方法をやっと見つけたので、メモしておきます。

● バラバラの方向を向く矢印図形のQGISプロット
QGISに方向を示す矢印図形をプロットして、それぞれ任意の方向を向かせたいと思い、作業にとりかかりました。
地物として矢印図形を作ったのですが、その図形のコピーと貼り付けの方法がわかりません。
編集に「地物のコピー」、「地物の貼り付け」があるのですが、それがアクティブになりません。
いろいろ調べて、だいぶ時間を消費してから、やっと「地物の選択」をすれば「地物のコピー」、「地物の貼り付け」がアクティブになることを知りました。

地物選択ツールを使って矢印を増設している様子

矢印を増設してからそれぞれ任意の向きに「地物の回転」で回転させます。
また矢印レイヤーを右クリックして「属性テーブルを開く」で個々の矢印図形のIDを修正(調整)しました。
IDと分類番号を含むcsvファイルをつくり、矢印レイヤーと結合すれば矢印を分類表示することができます。
実際の作業結果はブログ花見川流域を歩く2018.02.05記事「集落変遷と竪穴住居張出部方向 大膳野南貝塚後期集落」参照