大いに苦労して欲しい資料(情報)を入手してほっとする瞬間があります。
そして、その瞬間の後、資料入手がそれに関する活動の材料出尽くしとなってしまい、結局その資料を使わないという、なんとももったいない、不思議な状態になることがあります。
その入手資料を利用して行いたかった活動が色あせてしまい、興味を失い、別の対象に興味が移ってしまうことがあるのです。
この材料出尽くし感は繰り返し体験しています。
そしてその材料出尽くしに、良い材料出尽くしと悪い材料出尽くしがあることに気が付きました。
1 良い材料出尽くし
欲しい資料(情報)とはそれを利用できればよりよい知的生産ができると感じる資料(情報)です。
しかし、絶対必須の資料(情報)はそもそも「欲しい」というような形容にはなりません。
苦労があろうがあるまいがその資料を入手して、その資料を利用して活動をするだけです。
その資料が入手できなければ、残念ながら活動ができなかったということです。
絶対必須の資料(情報)に関して材料出尽くし感が発生する余地はありません。
欲しい資料(情報)とは絶対必須ではないけれど、利用価値が大きく見える資料(情報)のことです。
つまり期待感が先行している、期待感が勝手に肥大化している資料(情報)です。
このような欲しい資料(情報)を入手できたとき、最初に行うことは、その資料(情報)がどの程度自分の活動に役立つか、ざっと目を通すことです。
ざっと目を通して、活動にかなり役立つとか、まあまあ役立つとか、ほとんど役立たないとか直観的に評価します。
ほとんど役立たないとわかった場合、それが原因で活動に材料出尽くし感が生まれることはありません。普通それなら別の資料(情報)を探そうというより積極的な姿勢になります。
入手資料(情報)が活動に役立つとわかった時、その資料に何が書いてあるのか知ることができたのですから、いつでも使えるのですから、それで目的達成したということになります。
その資料(情報)を整理してしまって(格納して)終わりにすることがあります。
これは良い材料出尽くしだと思います。
欲しい資料のすべてをその場で100%利用しつくすなどということはあり得ません。
購入した本の全部を読む人はいないと思います。購入した本に何が書いてあるかわかれば、それを利用したいときに利用できるようにしておけば、その本を読む必要はないのです。
同じように欲しい資料(情報)は入手しておいて、その場ですぐに使わなくても、本当に必要な時に利用できるようにしておけばよいのです。材料出尽くしになってもよいと思います。
このようにして入手して、書棚とかパソコンハードディスクに控えている有用資料(情報)が、後日大いに役立つことがたびたびあります。
2 悪い材料出尽くし
一方、悪い材料出尽くしがあります。
欲しい資料が、その場の自分の活動にドンピシャ必要であると判った時、一瞬素晴らしと考えます。
そしてとたんに、その資料の利用がなんだか億劫になっていまい、その利用を考えることに抵抗を感じるようになります。
最後はその資料(情報)を利用すべき活動そのものが嫌になっていまします。
その苦労して入手した資料(情報)によって、活動が大いに発展すると判ったことによって、その活動に対する忌避感が生まれるのです。
他人様の事情は知りませんが、私の場合はそうなることがあるのです。
論理的、一般的に考えて活動発展の方向がより明瞭になったのですから自分の活動が発展してしかるべきです。
しかしその活動を阻害し邪魔するという自分自身の心のベクトルが存在するようです。
この自分自身に内在する活動発展阻害ベクトルに最近になってようやく気がついたということになります。
したがって、悪い材料出尽くし感が発生した時には、即座にその有害ベクトルに対処するようにしています。
有害ベクトルの存在が明瞭になっているのですから対処は可能です。
その存在に気が付かなかったときは、効果的な対処を外圧に依存していたのだと思います。
自分の過去に存在した「締め切り間際にならないと文章が書けない」という状況が、外圧によって悪い材料出尽くしから脱出しようとしている状況だったのです。
花見川風景
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