2015年10月21日水曜日

自分の手書きメモが読めない

自分が書いた手書きメモが読めない時があるという不思議な現象が時たまありますので、メモしておきます。

いくら乱雑にメモを書いたからと言って、自分の書いたメモが後からその真意が判らなくなるというようなことは普段はあり得ません。

日常生活でメモを乱雑に書いたがためにその真意が判らなくなったということは思い出せません。

ところが、趣味活動になると、メモの文章の中の1つの真意が判らなくなっていまうことが、稀ですが、繰り返しあるのです。

読めないのは大抵1字です。

現象的には、手書きの1文字が崩れていて、どのような字を書いたのか自分自身で判定できなくなってしまい、その結果その文章の意味が全く分からない、あるいは意味が不可解な文章となってしまうということです。

これまでは、たまたま単純に字を崩しすぎてしまい、後から読めなくなるという偶然であり、自分のメモ技量が弱いだけのとるに足らない現象であると考えてきました。

ところが、ブログ花見川流域を歩く本編の2015.10.03記事「2015.10.03 活動日誌」で趣味活動におけるお茶と眠気が単純な現象ではないと意識し出してから、自分のメモが読めない現象もお茶や眠気と同様の現象かもしれないと意識するようになりました。

読めなくなったメモの1文章はほとんどの場合そのまま読めないで終わってしまうのですが、極稀に「そうだったのか」と判ることがあります。

その復元できた文章の価値は大抵大きなものです。

たった1文字で文章全体の意味が判らなくなっていたのです。そしてその文章の価値が大きかったのです。

その時、読めなかった字の崩し方はいつもの崩し方と異なっています。このような字は書いたことがないという字になっています。

「自分にとって価値のある文章をメモする時、「手」がいたずらしてわざと読めないような字を書き、文章の意味を汲み取らせないようにする場合がある。」と考えて、ほぼ間違いないと思っています。

花見川風景

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