ブログ「花見川流域を歩く」で記事にしている通り、鳴神山遺跡の直線遺構M004が発掘調査報告書では道路としているのですが、最初馬防土手の一部の堀という強い先入観を持ち記事にしました。
その後発掘調査報告書を熟読して、M004は道路らしいと考えるようになりました。
M004を最初道路と考えられなかった要因として、自分が古代道路発掘事例を知らなかったことに気が付いていなかった点があげられます。
古代道路も、現代道路と同じようなものだろうと無意識に考えてしまったのです。
その後、古代道路の発掘事例の学習もはじめ、自分の間違いは訂正できました。
ブログ「花見川流域を歩く」2015.12.26記事「鳴神山遺跡道路遺構に対する疑問 4」
間違いは誰にでもあり、専門家にもあることだと思います。
専門知識のない自分にこのような間違いがあってもそれ自体は学習研究プロセスの中で普通の出来事です。
さて、この普通の出来事である今回の間違いについて、記事を書く中で、それを「お粗末」と感じて、その文字を記事に書きました。
その後違和感が生まれました。
「お粗末」と感じるからには、そのような間違いを自分がすることについて、ふさわしくないと思考している証拠です。
私が考古歴史の専門家である、あるいは専門家ではないにしろ職業として考古歴史の記事を書いているなら、間違いは「お粗末」と感じるべきものだと思います。
しかし、趣味の学習研究活動の一環として、自分の知識が低レベルであることを自覚した上で「ああでもない、こうでもない」と検討して自分なりに真実に迫ろうとし、ブログ記事を書いているのですから、間違いは「お粗末」ではなく、学習ステップアップの節目に当たったと考えるべきものだと思いました。
間違いにより自分の盲点を自覚できたのですから、自分にとってはむしろプラス感情を伴って受け入れるべきものだと考えるようになりました。
間違いを「お粗末」という言葉で表現してしまうと、その後の学習研究意欲が減退してしまいます。
専門家にとってはお粗末な出来事ですが、自分にとってはそもそもお粗末な出来事ではありません。
無意識の中で、自分を専門家として見立ててしまったようです。
間違いを「自分の盲点に気が付くことができた」と表現すれば、その後の学習研究意欲は大幅に向上します。
間違いをお粗末と咄嗟に感じてしまうのは、長い間の職業生活で培われた思考習慣のなせる業だとおもいます。
間違いと判った瞬間に自分の盲点が判ったのですから、それ自体はラッキーなことです。
趣味としての学習研究活動をより豊かに発展させるには、職業生活における思考習慣を徐々に趣味生活における思考習慣に変えなければならないと自覚させられました。
2015.12.26 花見川風景
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