2015年7月9日木曜日

墨書土器と地名との関係に関する興味


墨書土器文字と地名との関係に関する興味が熟成しつつあります。

いつか詳細検討をしたいと思っていますが、その概要をメモしておきます。

白幡前遺跡から墨書土器文字「草田」や「草」が出土しています。「草田」はカヤタと読み、現代大字名称「萱田」に比定されると考えられています。「草」もカヤと読み、萱田を意味する可能性があります。

また権現後遺跡から「村神郷」が出土しています。村神郷は古代地名(郷名)で、現代大字名称「村上」に比定されると考えられています。

上記事実から萱田(草田)と村上(村神)は8~9世紀には既に存在していた地名であることがわかります。

村神は村の神様のいる場所と考えると村の中心部を意味するように想像します。

「村」は自然発生的に生まれた集落ではなく、権力によって計画的に配置された集落を意味する用語であると考えることができます。

ですから、古墳時代に権力によって村神が平戸川(現在の新川)東岸に設置されたと考えます。
その後、村神という地名で指す場所が広域になり、平戸川西岸も含めて郷名になったと考えます。

草田は荒地とか未開地を意味すると想像します。

草田は計画的に配置された村神からみると荒地・未開地・辺境地という意味合いの土地であったと考えます。

墨書土器が作られる8~9世紀に使われていた地名に、8~9世紀以前(つまり古墳時代)の地域構造を示す2つの地名、つまり計画的に配置された集落中心部地名とその辺境地地名がみえることは大変興味深いことです。

そして、なにより、8~9世紀の萱田遺跡群(白幡前遺跡、井戸向遺跡、北海道遺跡、権現後遺跡)がその当時の辺境地である草田(萱田)に立地することが、萱田遺跡群の性格をよく物語っている貴重な情報であると考えます。

奈良時代になって蝦夷戦争のために計画的に配置された軍事平坦・輸送基地(=萱田遺跡群)の場所が、当時の草田(カヤタ)と呼ばれる未開地だったのです。

8~9世紀に広域地域村神郷の行政中心地は平戸川東岸にあったと考えます。一方萱田遺跡群には寺院や接待施設(ハマグリ大量出土)、陰陽師関連墨書土器文字などが出土し、律令国家中央と強く結びついた特性(軍事基地の特性)がみられます。

この2つの地名(村神と草田)の場所の機能の違い、権力上の優劣、それぞれの支配指導層の出自の違いについて興味がわきます。

支配指導層が異なるのか、同じなのかだけでも分かれば面白いと思います。

村上込の内遺跡と白幡前遺跡の墨書土器文字を詳細に比較分析すれば、支配指導層の違いがわかるかもしれません。

花見川風景

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